アスリートの身体を作る場合は、競技成績に結び付く様にします。
舞台関係者などの場合は、見た目にプラスしてその表現を伸ばせる身体を作ります。
日舞や茶道、武芸などでは、身体はあるままで動作に主眼を置きます。結果的に身体の形状が変わる事もありますが、それは主目的ではありません。
私が目指しているのは、動作の洗練さと身体そのもののきれいさの追究です。
それらを、各種のトレーニングの技法、スポーツ、芸事のお稽古などで組み立てていきます。
付随して周辺に、料理、人生や自然を楽しむ心、わずかな西洋学的な知識があります。
技法はあくまで手段なので別に何でも良いと考えています。
きれいになりたい要求が強い世の中ですが、もっと身体の使い方を洗練すると住みやすい世の中になるのではないかと思っています。
動きが洗練されるだけで、その人そのものがすごくきれいに見えます。
競技成績も無駄がなくなれば上がるものもあるでしょう。
マナーは洗練さの現れの一つでしょうが、他の人に気を使えないと洗練された身体の使いにはならないでしょう。
パーツとしての身体がきれいでも、にじみ出てくるものが無いと薄い様に思います。
心の使いが、身体に出てくるのかもしれません。
手の使い、肩の使い、胴の使い、腰の使い、脚の使い。
こういうものが時間をかけて熟成されると、その人そのものがきれいになってくる様に感じます。
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